小野神社【社殿】

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人々は危険な多摩川を去り、安全なさいたま市(大宮~浦和)へと移住した。

多摩川信仰である小野神社は、聖地としての役割を終える事となったが、偶然とは言え現在の地名『聖蹟桜ヶ丘』は聖地としてのプライドの成せる技かも知れない。

小野神社は、聖地としても、一ノ宮としても役割を終える事となるが、偶然とは言え、『聖蹟桜ヶ丘』の地名は聖地の成せる技かも知れない。

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小野神社【摂社・末社】

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創造と発展。

これが神が人類に与えた使命であり、我々がこの世に生まれてきた理由である。

かつて大量の水を要した稲作も、技術革新により現在の水田の原型となるレベルへと向上した。

人々は洪水を繰り返す多摩川を離れ、より稲作に適した地へと移住した。それが広大な湿地帯をもつ埼玉県さいたま市(大宮~浦和)である。

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小野神社【本殿】

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小野神社では現在、饒速日命に随従した神、天下春命が祭られている。しかし、本来の神は天照大神の荒魂である瀬織津姫だと云われている。荒魂とは祟りを及ぼす魂のことであり、記紀には登場しない神である。

大化の改新以降、蘇我の領地であった多摩地区を藤原が押収しており、あくまで可能性ではあるが、神の差し替えはこのあたりかも知れない。

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小野神社【拝殿】

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人は死して神となる。これは神道の基本である。

多摩川流域で稲作に携わった者も死して神となり、稲作という恵みと同時に、多摩川の破壊行為との融合を果す。

この大自然に対する畏怖と敬意、これこそが武蔵國一ノ宮・小野神社の始まりである。

縄文から弥生時代にかけて創建された小野神社は多摩川の洪水・氾濫のたびに流され、沈み、遷宮を繰り返していった

現在の鎮座地はその結果でしかなく、本当の鎮座地が何処にあったのかを知ることは出来ない。

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小野神社【随神門】

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多摩川に移住した人々はさっそく水田耕作に着手する。その恵みはこれまでの狩猟採集では考えられないほどの恩恵だったろう。

だが、多摩川は食料という恵みと同時に、洪水・氾濫という破壊をもたらした。その破壊力は地形そのものを変形させるレベルであった。

現在の多摩川は破壊を繰り返した上での形であり、当初のそれとはまるで異なるのだ。

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小野神社【鳥居】

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狩猟採集で生活をしていた縄文時代。生きるために必要な水は湧き水だけで十分であった。

しかし人口増加と共に、狩猟採集だけでは食料を賄いきれなくなってきた。そこに大陸より水田による稲作が伝来する。

水田耕作をするには西国分寺の湧き水では到底足りない。だが近くには豊富な水源がある多摩川があった。

人々は水田耕作に適した多摩川へと移住する。

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小野神社【真姿の池湧水群】

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東京の中央線、西国分寺駅周辺には古来より水が沸き出でて、今では名水百選にも選定されている。

とても清らかな水であり、東京にいることを思わず忘れてしまう程の光景である。

太古、ここを拠点に人々は営んでいた。そう、稲作の伝来までは。。。

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邪馬台國 #07

07

方位と距離の法則より宇佐神宮にたどり着く。
日没日食が北九州のみで起こる(岩戸隠れ)
宇佐神宮中央社殿の祭神は日女神(ヒメカミ)

既述の理由より邪馬台国は北九州、ヒミコの墓は宇佐神宮と考えます。もちろん私の妄想であり、これらをどうとらえるかは各自の自由です。なおヒミコの鏡と言えば三角縁神獣鏡が有名ですが、異論を唱えたい。何故なら日巫女には太陽を象徴した内行花文鏡こそ相応しいのだから。

参考文献
卑弥呼の墓 戸矢学 AA出版
大和朝廷成立の謎 渡辺雅史 幻冬舎ルネッサンス
国立天文台

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邪馬台國 #06

06

神社には古来より中央が最上位、次が左、右と言うルールがあります。しかし宇佐神宮はこの原則に反し、端の八幡神を最上位としています。九州特有の慣習なら分かりますが、それもありません。ここだけです。端でなく中央こそ本来の神。そしてその神は何とヒメカミ(日女神)!

明日に続く。

(1105枚目)

邪馬台國 #05

05

247年3月24日の夕刻、宇佐神宮を日没日蝕という天変地異が襲います。日没の直前に日蝕が始まり、元に戻ることなく夜になっただけですが、古代人にとっては太陽の岩戸隠れ。大事件です。この世の終わりです。しかもこの特徴的な日蝕、畿内ではなくが北九州だけの事象なのです。

明日に続く。

(1104枚目)