天之御中主は空想の神ではなく実在した人間で、そこから派生した血脈(日月海)を呑込み、再び1つになったものが天皇である。
では実在した人物とは誰か。
その答えは司馬遷の史記にあり、彼は高天原という名の実在する大陸(半島ではなく)にいたことは間違いない
(1892枚目)
100人程度の集落で原始的な暮らしをしていた日本に徐福らは最先端の武器と技術をもって3000人規模やって来た。これは江戸時代の黒船来航のレベルではない。
それでいて、この時代に血なまぐさい争いが起こった形跡はない。徐福らは和平的に日本人と融合し、各地を開拓していった。始皇帝のやり方に否定的だったのかも知れない。
そして方士として徐福が最終的に求めた場所、それが埼玉である。この土地は京都や奈良などよりも遥かに王都として適している。
聖地バチカンやメッカはあくまでも聖地であり、人が住まう場所ではない。出雲や伊勢も同様にどこまで行っても聖地である。つまり出雲大社があるからといって、出雲王朝が出雲に在ったわけではない。
かつてのポンペイのように、またただの神話であった殷、周王朝のように、関東ローム層を掘り起こせば徐福が建国した都市が発掘されることであろう。
しかし現状を考えると、出雲王朝が出雲ではなく、埼玉であったとされる日はかなり遠い。
武蔵国をゆく 稲作と日巫女と風水。
参考文献
富士山、2200年の秘密。戸矢学。かざひの文庫。
命運を推す。小山内彰。希林館。
徐福王国相模。前田豊。彩流社。
史記。司馬遷。ちくま学芸文庫。
(1127枚目)
紀元前3世紀、不老不死を望む秦の始皇帝をだまし、3000人もの男女と、多くの技術者を従え、かつ、五穀の種を持って、東方に船出し、『広い平野』と『湿地』を得て、王となり戻らなかった男がいる。
その名は方士・徐福。
世界最古の国史・史記からの抜粋である。著者である司馬遷は記述にあたり入念な調査を行っており、その内容はかなり信頼出来る。3000人という数字もほぼ正確であろう。
五穀の種、東方など記紀と共鳴する部分も多く、さらには広い平野と湿地。そして何よりも天文知識に秀でた方士という職種がポイントである。弥生時代、これだけの条件をもった人物は方士・徐福だけであり、もし仮にいたとしても司馬遷が見逃すわけがない。
この方士・徐福こそ氷川信仰のコアなのである。
(1126枚目)