大嘗宮【悠紀殿】

大嘗宮【悠紀殿】

天之御中主は空想の神ではなく実在した人間で、そこから派生した血脈(日月海)を呑込み、再び1つになったものが天皇である。

では実在した人物とは誰か。

その答えは司馬遷の史記にあり、彼は高天原という名の実在する大陸(半島ではなく)にいたことは間違いない

(1892枚目)

大嘗宮【北極星】

大嘗宮【北極星】

太陽は昼しか支配出来ず、月も夜しか支配出来ない。素戔男尊も海と死しか支配出来ない。

しかし、太陽も月も海も陸も現世も総ては北極星を中心に廻っている。つまり太陽よりも、昼も夜も総てを支配出来る北極星こそ皇祖神に相応しい。

そして実在した天皇の皇祖を北極星と重ね合わせ、具象化したものが天之御中主である。

だから、北極星が輝く夜に天皇の生まれ変わりである大嘗祭を行うのだ。

徳川家康はこれに気付いていたのではないだろうか。

その証拠に、京都の『東』にある江戸から日本をあまねく『照』らす東照大権現として、天帝である北極星が直上に輝く日光に眠ることが相応しいと考えたと思われる。

(1891枚目)

大嘗宮【廻立殿】

大嘗宮【廻立殿】

太陽=皇祖だと考えるから分からなくなる。

シンプルに考えると大嘗祭とは廻立殿(精巣)から出た天皇が、悠紀殿(女:子宮)に入り、主基殿(男)から現れる生まれ変わり(出産)を表したものだ。

この天皇の生まれ変わりを見届け、太陽や月を含む全てを従えるものこそが皇祖神であり、それが不動の星、北極星である。

(1890枚目)

大嘗宮【左側面】

大嘗宮【左側面】

皇祖神が素戔男尊なら、御依代である天叢雲剣を伊勢や宮中ではなく、熱田に置いたままにしない。

そもそも天叢雲剣は八岐大蛇の剣で、素戔男尊は十束剣なのだ。

また素戔男尊は出雲王朝の祖神であり、まして八岐大蛇が大嘗祭のメインであるはずがない。

(1889枚目)

大嘗宮【小忌幄舎】

大嘗宮【小忌幄舎】

大嘗祭は五穀豊穣を神々に感謝し、新穀を神々と共に天皇自身も食する儀式。

ただ神々と言っても当然メインは皇祖神である。

しかし天照大神(日没後)や月読命(非満月日)には相応しくない時に儀式を行っている。

では、本当の皇祖神は残る素戔男尊なのか?

(1888枚目)

大嘗宮【主基殿】

大嘗宮【主基殿】

15日0時30分頃より『主基殿供饌の儀』が始まる。悠紀殿と同じく天皇はここでも神々と共に過ごす。

夜空には月が輝いているが、満月ではない(月齢は18)ので月読命の為に行う儀式としては相応しくない。

では一世一代の大嘗祭で主体となる神は誰なのか?

(1886枚目)

大嘗宮【悠紀殿】

大嘗宮【悠紀殿】

14日の夕刻、古式にのっとった秘儀『悠紀殿供饌の儀』が行われた。

厳粛なる雰囲気の中、天皇は皇祖神である天照大神と共に自らも飯と酒を口にする。だが、ここで一つ疑問が出てくる。

何故、天照大神(太陽)が地平線に消えてから始めるのだろうか?

(1885枚目)

大嘗宮【南神門】

大嘗宮【南神門】

2019年11月14日~15日にかけて、新天皇が即位された後、新穀を神々に供え、陛下自身もそれを食する大嘗祭が行われました。

明日より7日間、常識を無視した内容でお送りしていきますが、あくまでそんな考えもあるのかな~的な感じでお読み頂ければ幸いです。

(1884枚目)

氷川神社【神楽殿】

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100人程度の集落で原始的な暮らしをしていた日本に徐福らは最先端の武器と技術をもって3000人規模やって来た。これは江戸時代の黒船来航のレベルではない。

それでいて、この時代に血なまぐさい争いが起こった形跡はない。徐福らは和平的に日本人と融合し、各地を開拓していった。始皇帝のやり方に否定的だったのかも知れない。

そして方士として徐福が最終的に求めた場所、それが埼玉である。この土地は京都や奈良などよりも遥かに王都として適している。

聖地バチカンやメッカはあくまでも聖地であり、人が住まう場所ではない。出雲や伊勢も同様にどこまで行っても聖地である。つまり出雲大社があるからといって、出雲王朝が出雲に在ったわけではない。

かつてのポンペイのように、またただの神話であった殷、周王朝のように、関東ローム層を掘り起こせば徐福が建国した都市が発掘されることであろう。

しかし現状を考えると、出雲王朝が出雲ではなく、埼玉であったとされる日はかなり遠い。

武蔵国をゆく 稲作と日巫女と風水。
参考文献

富士山、2200年の秘密。戸矢学。かざひの文庫。
命運を推す。小山内彰。希林館。
徐福王国相模。前田豊。彩流社。
史記。司馬遷。ちくま学芸文庫。

(1127枚目)

氷川神社【本殿】

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紀元前3世紀、不老不死を望む秦の始皇帝をだまし、3000人もの男女と、多くの技術者を従え、かつ、五穀の種を持って、東方に船出し、『広い平野』と『湿地』を得て、王となり戻らなかった男がいる。

その名は方士・徐福。

世界最古の国史・史記からの抜粋である。著者である司馬遷は記述にあたり入念な調査を行っており、その内容はかなり信頼出来る。3000人という数字もほぼ正確であろう。

五穀の種、東方など記紀と共鳴する部分も多く、さらには広い平野と湿地。そして何よりも天文知識に秀でた方士という職種がポイントである。弥生時代、これだけの条件をもった人物は方士・徐福だけであり、もし仮にいたとしても司馬遷が見逃すわけがない。

この方士・徐福こそ氷川信仰のコアなのである。

(1126枚目)